メッセージ
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心の苦しみの牢獄 2012年5月29日
「自分─私」への執着、エゴがあるところには必ず自己中心性があります。 大抵私たちは常に自分中心に物事を考え、欲し、行動し、利己的に生きています。 それが自己執着とエゴの本質であり、これこそ様々な問題を引き起こす根です。 自分の満足、自分の
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正気であるということ 2012年5月28日
正気であるとはどういうことでしょうか。 何が正気で何が狂気でしょうか。 私たち人間の社会、生き方、あり方は本当に正気でしょうか。 正気であるとは、行為や心がバラバラになってていないこと、 統一されていて全体的であるということです。 精
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真理の普遍性 2012年5月25日
社会のあり方や、他者が語った言葉に従属しているならば、真実の探求は不可能です。 生の真理の探究は、私たち一人一人が取り組まなければならないものです。 真理を見出すのは、自由な精神を持った一個に「人間」です。 何ものにも属さず自由に探究し、自由に
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動物を殺す文化 2012年5月24日
人間の文化は、動物を殺す文化です。 人間は当たり前のように動物を殺します。 快楽、グルメ、利益、ファッション、スポーツなどと称して、 何のためらいもなく動物を殺します。 自らの舌を、食欲を、味覚を満たすという理由で、 豚や馬や鳥などの
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生への愛、死への愛 2012年5月23日
生を、生きることを愛するとは、あるがままの現実を愛することです。 自分の願望や理想、未来、自己実現といった不確かで非現実的なものではなく、 嘘偽りのない真の現実を愛するということです。 その現実こそ、生であり、命であり、実在なのです。 その現
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苦しみとエゴの関係 2012年5月22日
苦しみはエゴであり、エゴは苦しみです。 エゴ(自我─私)が終わることは、苦しみが終わることです。 苦しみが終わることは、エゴ(自我─私)が終わることです。 それは、私、自分、自己、我─その意識、心の執着の完全な終焉です。 エゴという苦し
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実在を生きる 2012年5月21日
「実在」を生きないならば、人は真に「生きている」とは言えません。 実在を生きること、実在と共にあることで初めて「生きている」と言えます。 実在を生きるとは、嘘偽りのない全き現実を生きるということです。 あるがままの現実から決して顔を背けず、現実
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孤独の清々しさ 2012年5月18日
たった独りでいること、それは素晴らしいことです。 独りでいるということの中には、大いなる静けさと注意深さがあります。 この沈黙と注意深さこそ、人間の精神性と瞑想を深めるものです。 たった独りで草原の中を、川のほとりを、静かに歩いてみましょ
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瞑想の形 2012年5月17日
瞑想は、自分の力で制御するものでも、招きよせるものでもありません。 それは自然と意図なく起こるものであって、人間の意志で起こすものではありません。 瞑想は精神的なゲームでもなければ気晴らしでもなく、 また単に知的な遊びでもなければ慰めでも
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満てる「有」というもの 2012年5月16日
宇宙は存在しています。 宇宙の存在の根源に立ち戻るとき、そこには名前も言葉もありません。 宇宙は無名の中で存在する「有(う)」であり、この「有」とは命そのものです。 草には本来、名がありません。 鳥にも、石にも、星にも、空にも、本来名は
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苦しみが人間を変える 2012年5月15日
苦しみほど、人間を成長させるものはありません。 そしてまた、苦しみほど人間を生の─生きることの─真実へと運んでくれるものもありません。 人間の苦しむ意味は、苦しみによって人間が「変わる」ことにあります。 苦しみは人間を変えます。むしろ苦し
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運命が人間を運ぶ 2012年5月14日
一人一人の人間に与えられた苦悩の運命というものには、必ず意味があります。 意味があるからこそ、その苦しみ、その不幸は人間に訪れます。 意味のない苦しみ、意味のない不幸の現実というものはありません。 それはその人自身が経験し、生き、学び、自分自身
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神の身体 2012年5月14日
神の身体とは、宇宙そのもののことです。 人は神を頭の中で思い描いたり、キリストのような人格を思い浮かべるかもしれません。 しかし、今現在、この宇宙は存在し、維持されています。 この宇宙を、全生命を維持し、支えているのは人間の力によるものではあり
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運命の航路 2012年5月11日
人間に降りかかってくる不幸な運命というものは、 苦難の荒波の中で私たちを運んでいく船のようなものです。 この航海では、もはや人は舵を取ることはできません。 舵を取っているのは、その「運命」─宇宙そのもの─だからです。 激しい荒波の上では、自分
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「強さ」の追求 2012年5月11日
どんなものであれ、「強さ」を追い求めることは野蛮でしょう。 強さを追い求めるところには、必ずエゴがあります。 権力、地位、金、記録を求めることも強さを追求することと同じです。 現代社会の人間の活動の底にあるのは、 どんな種類のものであれ「強さ
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「心」という存在 2012年5月10日
人間は心を持ちます。 心があるから様々な感情が湧き、同時に苦しみや悲しみを持ちます。 このような「心の動き」というものは、それ自体に意義があります。 意義がなければ「心」というものは存在しないでしょう。 それは意義があるから存在し、動いている
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あるがままの生を愛すること 2012年5月10日
自分がこうむった運命を、あるがままの現実を、ただまっすぐ受け入れ、認めること。 それが宇宙のあるがままの現実、嘘偽りのない現実だからこそ、それを心から受け入れること。 あるがままの現実をそのまま認め、受け入れること。 それは同時に宇宙そのものを
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苦しみから生まれる悟り 2012年5月9日
苦しみの経験がなければ知恵や洞察は生まれません。 言葉や知識ではなく、自分の全身全霊で苦しみを味わうことで人は真に学び、理解します。 ただ辛く、痛く、苦々しい重い苦しみ、 その苦しみが人の導き手となって私たちを運んでいきます。 苦しみを
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無執着という自由 2012年5月9日
完全な自由とは、自己自身への無執着、自分の生への無執着です。 それは完全な自己放棄の生です。 自分という存在、自分の人生に執着しないこと、「私」に執着しないこと。 「生に執着しない」とは、生きながら自分というものを捨て、 何もない「無」
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死という現実からの逃避 2012年5月7日
死という、何もない無、その絶対の真空状態を受け入れられないからこそ、 心は絶えず「何もない無」ことから逃げ回ります。 この無が耐えられないため、人の心は常に何かに執着し、心の所有に依存しようとします。 物質の豊かさ、名声や地位、お金、世俗
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「見える」という奇跡 2012年5月2日
目が見えるということは、大きな奇跡ではないでしょうか。 私たちのほとんどは「目が見える」ということに対して、 驚きの念を持ちません。 「目が見える」ということが当たり前になっているので、 この当たり前の奇跡が感じれなくなっているのです。
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生きているという奇跡 2012年5月1日
ほとんどの人々は普段、何げなく生きています。 生きていることが当たり前であるかのように日々の生活を営んでいます。 「生きている」ということは当たり前のことでしょうか。 それは驚くべきことでも奇跡でもなんでもなく、 いたって普通のこと、当
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言葉を超える神秘 2012年4月27日
本来、この宇宙には「言葉」というものはありません。 言葉が生まれる前から宇宙は存在し、あらゆるものは沈黙のうちで生きていました。 全ては無名で言葉のない世界だったのです。 宇宙の本然は「沈黙」です。 沈黙こそ宇宙の本来の姿であり、生命の
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エゴという元凶 2012年4月26日
自己、自分、私、我─ このエゴこそ人間にとっての苦しみの牢獄であり、最大の障害です。 むしろ人間にとっての心の障害はエゴしかないと言ってもよく、 そのエゴ─自己執着─に囚われているかぎり、苦しみが終わることはありません。 「私」こそ苦し
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死の本質を理解する 2012年4月25日
「死」とは、人間の意識の終わりです。 私たち人間は一人一人意識を持って生きています。 人生とは意識の内容そのものであり、その意識の内容が私たち一人一人の人間です。 人間の意識の中身には、その人のあらゆる心の所有と欲望があります。 世俗的