生きているという奇跡

2012年5月1日

ほとんどの人々は普段、何げなく生きています。
生きていることが当たり前であるかのように日々の生活を営んでいます。

「生きている」ということは当たり前のことでしょうか。
それは驚くべきことでも奇跡でもなんでもなく、
いたって普通のこと、当然のことなのでしょうか。

私たちのほとんどは「生」に対して奇跡を感じていません。
「生」というものは、本来途方もない奇跡、神聖なものですが、
私たちはその「生」を奇跡として、聖なるものとして見ていないのです。

「生きている」ということが当たり前になったとき、
人間の精神は退屈で惰性的になってしまうように思われます。
「生」というものの厳粛さ、神聖さ、新しさ、瑞々しさは失われ、
ただただ習慣的に生活するだけのものになってしまいます。

今、世の中で溢れているのは軽薄な活動ばかりです。
娯楽、享楽、金儲け、流行、仕事漬け、腐敗した政治—
教育や学校の場においても、この「生」そのものに対する厳粛さや神聖さが、
あまりに欠けているように思われます。
子供たちはただ進学するため、就職するためだけに学校に行っているかのようです。
こうして子供たちもまた、今の社会に溢れる同じような大人になるだけです。
これでは「生」というものの豊かさ、美しさが消えてしまいます。

「生」というものは当たり前のものではありません。
「生きている」ということは恐ろしいほど神聖な何かです。
生というものは奇跡であるからこそ、人もまた厳粛に生きなければなりません。
そしてその生の「奇跡」を感じれないならば、
一体、人生とはどれほど軽薄で凡庸なものになってしまうでしょうか。
生きることが「当たり前」になってしまうのなら、
生はどれほど無意味なものになってしまうでしょうか。

「生」が本来持つ奇跡、その神聖さに気づかず、
そしてまたそれに目覚めないならば、
人は真に「生きている」とは言えないでしょう。

「生」の聖なる奇跡に目覚めてこそ、本物の人生があります。


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