死という現実からの逃避

2012年5月7日

死という、何もない無、その絶対の真空状態を受け入れられないからこそ、
心は絶えず「何もない無」ことから逃げ回ります。
この無が耐えられないため、人の心は常に何かに執着し、心の所有に依存しようとします。

物質の豊かさ、名声や地位、お金、世俗的な成功、人間関係や仕事、活動や経験、
自分の将来、理想、ステータス、満足、喜び。
その他「自分」というものを支えているもの、自分に安心を与えてくれるもの、
「これが自分だ」と感じられる一切のもの。こうした全てによって、
人は何もない「無」を覆い隠し、紛らわし、そこから逃げ続けています。

しかし、人はこの「無」から、「真空」から逃れることは絶対にできません。
なぜなら、人はやがて必ず死を迎えるからです。
死という現実は、確実に私たち人間の全てを(意識の全てを)無に帰するのです。

どんな心の所有も、記憶も、観念も、
そしてそれらの意識の中身によって作られている「自分-私」も、
全ては消えゆくものであり、決して永続することはないのです。
にも関わらず、私たちは徹底して自己に執着し、自分を失うまいと心を闘わせ、
その自己の所有と損失とのあいだで揺れ動き、もがきながら生きています。

これはなんという生の浪費、無意味な心の闘争でしょうか。
私たちはやがて必ず失われるもの、手放さなければならないものに執拗に執着し、
まさにそのこと―自己への執着―によって苦悩と不幸に陥っているのです。

死を受け入れ、自己への執着を断ち切ることによってのみ、
私たちは死への恐れを克服することができます。
自己への執着を無にすることこそ、死への恐怖の終わりです。
死への恐怖とは、自己を失うことへの恐怖にほかならないからです。

重要なことは、自由であるがために自己を放棄することです。
この自己放棄こそ、人間にまったき自由をもたらすのです。


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