究極的なもの
2012年12月21日
究極なるもの―神、真理、光明―は、
私たち人間の側が作り上げるものではありません。
究極的なもの、それはまさに命そのものですが、
命というものを人間が作ることはできません。
人は頭の中で神を想像することもできれば、
生命の根源を見出したと思い込むこともできますが、
しかしそのような想像や思い込みほど危険なものはありません。
頭の中で勝手に神や真理を作り上げても、
それはただ自分を満足させるために投影されたものかもしれません。
究極的なものというのは、人間の頭の中で考案されるものでしょうか?
それは自分の頭で考えられ、知りえるようなものでしょうか?
神谷真理は心の中に描かれた心象でしようか?
様々な表象や心の中の心象は私たちの心を満足させるかもしれません。
神の表象、聖なるものの表象、生まれ変わりの表象、
または自分を支えてくれる神の心象、心の満たしてくれる心の対象─
しかし、このような表象物は自分の欲望によって作られたものです。
真に究極的なものは、いかなる表象も持ちません。
それは心が心自身を満たすために勝手に作り上げられるものでもなく、
想像されたり思い込んだりできるようなものでもありません。
究極的なものは、決して知りえないものであり、触れることもできないものです。
それは人工的なものではありえません。
究極なるものは、一切の知識、思考、表象を超えたものであり、
認識できるというよりも認識されざるもの、
名を持つというよりも永遠に無名なるものです。
それは知りえないから究極なるものなのであり、
触れえないから無限に溢れたものなのです。
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