瞑想のあり方 NO.11
2012年11月29日
瞑想と注意力は密接に結びついています。
瞑想は注意力があってこそ深まる運動です。
注意力がなければそこには精神の散漫さがあります。
気が散漫しているならば、「生」を深く感じることはできません。
生の真理を発見するのは、注意深い精神だけです。
散漫で気の抜けた精神、無気力でぼんやりした精神は、
はたして生の真理というものを見出せるでしょうか。
真理を見出すのは、真剣に生きている人だけです。
そして真剣に生きている人とは、高い注意力を持った人のことです。
注意する精神は、集中する精神とは違います。
集中があるとき、欲望があります。
集中はある一点に力を注ぐことであり、
それでは他の部分を排除してしまうことになります。
注意には排除はありません。
それは心を一点に集中させずに、生の全体に心を開け放つこと、
生の全体に対して心を鋭敏にすることです。
この気づきの鋭敏性、全体性こそ「注意」です。
集中は排除であり、注意は「自然な気づき」です。
この自然な気づきには、どんな意志も努力もありません。
努力や意志があるところには、欲望や集中があります。
しかし瞑想とは、意志の行為でも欲望の行為でもありません。
瞑想とは、意志も努力も欲望もない「自然の気づき」の行為です。
その自然の気づき、心の鋭敏性こそは注意力がもたらすものであり、
それが瞑想の土台となるものなのです。
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