瞑想のあり方 NO.9
2012年11月20日
瞑想とは、無私無欲の行為です。
欲望のあるところには瞑想はありません。
自己中心的なエゴがあるところには瞑想はありません。
瞑想は、何かを獲得するための運動ではなく、
むしろそのような欲望やエゴから精神を浄化するための運動です。
自己中心性があるところに欲望があり、
欲望は同時に恐怖を生み出します。
欲したものが得られないという恐怖、
そして得られたものを失われるのではないかという恐怖。
自己中心性とは、まさに恐怖の活動です。
恐怖のあるところ、心の自由はありません。
自由がないならば、瞑想もありません。
瞑想は、混乱のない自由な心から起こるものです。
心が混乱しているならば真の瞑想は決して起こりません。
瞑想は、あらゆる羨望や欲求が終わったところから始まります。
つまり自己中心性が滅びたところにのみ真の瞑想があるのです。
自己中心性が消え去ることで、静謐なる精神、沈黙した精神が生まれます。
その静謐と沈黙の中から、大いなる瞑想が開花します。
何も欲さず、求めない心とは「無欲」の心です。
そして自分に執着しない心とは「無私」の心です。
無私無欲、何も求めず、何も失わない心、
そういう空白の清浄な心こそ瞑想の基盤となります。
真の瞑想とは、この何もない「無」から起こります。
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