瞑想のあり方 NO.6
2012年11月5日
瞑想は、言葉が終わったところから始まります。
例えばお経を唱えたり、祈りの言葉を捧げたりすることは瞑想ではありません。
祈りや読経というもの自己催眠的なものであり、
人間の作為や、願望、意志の欲望が潜んでいます。
また、ただただ心がおしゃべりに忙しいならば、
そのような心は決して瞑想をもたらすことはできません。
瞑想には、沈黙の心、静謐な心が必要なのです。
瞑想は、静かな精神性の中で起こるものであり、
そこから見つめ、聴き、気づく行為です。
外部のあるゆるものを見つめ、聴き、気づくこと。
また、内部の心の動きを見つめ、聴き、気づくこと。
ただ見つめること、聴くこと、そして気づくという行為は、
欲が介入しない純粋な行為であり、
その純然たる行為こそ瞑想にほかなりません。
しかしもし「見よう」と意志するなら、そこに欲望があります。
ですから「見よう」とすることなく自然に見つめること、
「聴こう」とすることなく自然に聴くこと、
「気づこう」とすることなく自然に気づくこと。
それが瞑想のごく自然なあり方です。
言葉のおしゃべりが止まらないならば、
それを意志的に「止めよう」とするのではなく、
ただその騒がしい心の動きを見つめ、聴くこと。
それに対して何かをしようとすることなく、ただ静かに気づいていること。
そのような無為の自然な態度によって、
葛藤や苦闘のない瞑想の行為が花開きます。
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