言葉なき瞑想
2012年11月1日
瞑想とは言葉なき運動です。
言葉のおしゃべりがあるところに瞑想はありません。
心が言葉で溢れているならば、瞑想の純粋さは失われてしまいます。
たとえば日本ではお経のようなものもあれば、
インドではマントラといった言葉を繰り返す修養があります。
キリスト教などにおいても、言葉で祈ったりすることもあるでしょう。
しかし真の瞑想は、言葉なき沈黙の中で起こるものです。
宇宙そのものが言葉なき完全なる沈黙であるように、
真の瞑想もまた「言葉を超えたもの」なのです。
言葉のおしゃべりは、人間の心の騒がしさです。
欲望、不安、願望、欲求、恐怖、渇望─
こうした心があるからこそ、言葉が溢れだしてきます。
何ものにも囚われていない心は、決して言葉を溢れさせることはありません。
心が言葉でいっぱいならば、決して本物の瞑想は起こりえません。
瞑想が起こるためには、心は完全に静まっていなければなりません。
そして心の完全な沈黙とは、言葉の終わりです。
この沈黙と静謐の中で、本来のダイナミックな瞑想が起こります。
なぜなら、それは宇宙それ自体としてある瞑想だからです。
ちっぽけな「我」にとらわれることのない瞑想です。
「我」にとらわれているからこそ、言葉がとめどなく溢れるのです。
本物の宗教心は、言葉を超え、我を超えた先にあります。
そして真の瞑想もまた、一切の「我」を超えた先の次元にあります。
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