快楽と幻想の超越
2012年10月10日
卑小な快楽に囚われて生きる人の何と多いことでしょうか。
人は自分の心が満たされず、人生が空虚なので、
何かしらの快楽にすがりつこうとします。
単に肉体的な快楽を追求する人もいれば、
いわゆる霊的な快楽を求める人もいます。
神、神秘的な体験という言葉に縛られて、
何かしら喜ばしい霊的な満足を求めるのです。
これは現代文明で多く起こっていることです。
ひっきりなしの娯楽やスポーツ、イベント、
他方には宗教、スピリチュアルの追求。
この背景にはどれほど「快楽」というものが潜んでいるでしょうか。
人間は自分の欲のままに動き、その欲そのものに気づいていません。
結局は私たちは、何かから逃避するように快楽に走ることが多いのです。
欲望と快楽は常に幻想の世界に属しています。
とりわけ「霊的な快楽」というものは極めて危険でしょう。
人は神を妄想し、神秘を追い求めようとしますが、
欲に縛られたそのような追求は幻想でしかありません。
霊的な体験、霊的な次元を追い求めようとする欲望、
それもまた同じ快楽にほかなりません。
やはりそれも逃避のための手段なのです。
人は来世を妄想したり、生まれ変わりを信じ込んだりします。
しかしそのような心の動きもまた欲望にすぎません。
「自分はこうありたい」という欲望、エゴから生じる渇望です。
幻想や妄想のあるところに真理はありません。
真理は快楽や自己達成の領域にはないのです。
自己達成への欲望、満足と快楽への絶えざる欲望があるかぎり、
人は決して幻想の外に出ることはないでしょう。
それはどこまでいってもあるがままの現実からの逃避です。
真理を生きるには、幻想の外に出なければなりません。
卑小な快楽や、未来への妄想、あらゆる霊的な虚偽を捨て、
ただ「現実」を見つめる目こそ必要です。
あるがままの現実を生きてこそ、真理が開示されるからです。
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