注意力から生まれる瞑想

2012年8月23日

注意力から生まれる瞑想

瞑想と注意力は密接に結びついています。
瞑想は注意力があってこそ深まる運動です。
注意力がなければそこには散漫さがあります。
気が散漫しているならば、「生」を深く感じることはできません。

生の真理を発見するのは、注意深い精神だけです。
散漫で気の抜けた精神、無気力でぼんやりした精神は、
はたして生の真理というものを見出せるでしょうか。
真理を見出すのは、真剣に生きている人だけです。
そして真剣に生きている人とは、高い注意力を持った人のことです。

注意する精神とは、生の厳粛さと真剣さを意味します。
瞑想は厳粛なもの、真剣なものです。
散漫や無気力があるなら、瞑想はありえません。
そこにあるのは精神の堕落でしょう。

注意力があるからこそ瞑想をより深めていくことができます。
生をよりよく洞察し、理解するのは注意力のある精神だけです。
注意力が瞑想の深さと質を決めます。
注意力の高さこそ、真に宗教的な生の土台です。

生の神秘、その途方もない深さ、神聖さを感じられるのは、
真に厳粛に生と向かい合って生きる精神だけであり、
そのような精神は、注意力を高度に保っています。

注意力こそ、宗教的資質そのものと言えるでしょう。


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