「知る」という欲望

2012年7月3日

「知る」という欲望

現代の腐敗した社会の根底にあるものは「知る」ということです。
言葉、知識、情報、他人がどうした世間がどうしたというゴシップ、
新聞の記事、インターネットの記事、他者が書いた日記やブログ。

人は「知りたい」から動きます。動かされます。
なぜなら「知らない」ということは、心が空白であることだからです。
人は自分の心が虚しくあることを望みません。
心の虚しさを満たすために、どうでもいいような無意味な知識を欲します。

世間で見られるニュース、ゴシップ、芸能、スポーツといったものや、
テレビで垂れ流し続けられる多くの情報、知識、言葉。
こうしたものを求め、詰め込み、心を虚しさから回避しているのが現代の人間です。
なんという凡俗な、卑小な生き方でしょうか。

何かを「知る」ことで、心は満たされ、安心する。
何も知らないこと、何もない心の空白が耐えられない。

そのため私たち人間は「知る」ということを過剰なまでに膨張させた社会を作りました。
新聞やテレビ、インターネットというものはまさにその典型です。
新聞の記事を読んで人は「知る」。テレビを見て人は「知る」。
インターネットに繋げば恐ろしいほどに膨れ上がる言葉と情報がそこにある。
日本で、世界で今何が起こっているかをあっという間に「知る」ことができる。

しかし、そのほとんどが知る必要もなければ、知らなくても問題のないものばかりです。
むしろどうでもいいこと─たとえばゴシップのたぐい─はまったく無意味です。
私たちの多くは、こういうニュースやゴシップを詰め込むことに心を奪われています。
「知る」ことが自分の心の安心を支えているかのように。
結局「知る」ということの習慣が心に根付いているので、知らないままでいられないのです。

なぜ「知らないまま」で満足できないのでしょうか。
なぜ「知らないまま」に耐えられないのでしょうか。
それは自分の心を満たすために、虚しい自分を隠すために精神が知識を求めるからです。
人の心は「知る」ことなしには生きていけないかのように毎日知識を集めます。
知識が増えれば増えるほど、人の心は貧しくなります。
なぜなら、知識はどこまでいっても表面的で卑小なもの、
さらには過去のもの、死んだものだからです。

知識の過剰、頭に詰め込まれて膨れ上がった知識は、
それがそのまま人間のみじめさであり、人間の卑小さでもあります。
有り余る知識の氾濫と膨張が人間の精神を軽薄にしているのです。


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