祈りや儀式について
2012年6月29日
私たちの宗教や伝統では、
信仰や祈り、儀式といったものが重要視されています。
現代の文化、その宗教は、
洞察力や精神の覚醒よりも信念や信仰、無意味な儀式や祈りのほうに比重が置かれており、
それによって精神は目覚めるどころか、むしろ洗脳に陥ってるようです。
人は不安で、心が満たされないから宗教的な儀式や祈りを繰り返し、
それによって自分は救われる、何かを成就できると考えています。
自分の中に欲望があるから儀式や祈りのとりこになっているのであり、
それは自己憐憫以外に何ものでもないでしょう。
自己への執着、こうありたい、こうなりたい、救われたいという欲がなければ、
一体祈りや儀式の必要はあるでしょうか。
一見、厳粛に見える祈りや儀式も、その背景には人間の欲や満たされぬ思い、
達成したい、成就したいというエゴが隠れているのではないでしょうか。
心を満たすために、または不安や恐怖に流されて祈りや儀式を行うことの中には、
あるがままの現実からの逃避や、自分の満足を得ようとする欲望と偽善があります。
人はこのことに気づいていないまま、祈りや儀式にとらわれているかもしれません。
一輪の花を見てみましょう。
花はただ咲いており、祈ったり、自己満足を求めたりはしません。
花はただそこに咲いています。まったく無為に、無私に。
それだけで清らかであり、美しいのです。
しかし人間の世界には、祈りや儀式、様々な宗教的伝統が行われており、
このようなものの中には何ら美も真実も清らかさもありません。
意図的に、作為的に行われる行為は美ではありません。
見かけは美しくとも、祈りや儀式の中には真の美はありません。
それは人が作り上げた伝統であり、不安や恐怖に根差したものであり、
さらにはエゴによって生み出された人為的なものだからです。
人為的なもの、作為的なもの決して聖なるものではありません。
一輪の花のうちにある「真理」を理解できるならば、
真の美しさとは何か、聖性とは何かということを悟ることができるでしょう。
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