タオイズムの智恵 NO.9
2015年3月31日
内面の徳が優れているならば、外の形などは取るに足らないものになる。
ところが、世間の人々は、もっぱら外形のことばかりにとらわれている。
忘れてもいいもの(外形)を忘れずに、忘れてはならないもの(内面の徳)を忘れてい
る。
これこそ真の忘れというのだ。
聖人の場合、心は何ものにもとらわれずに自由に解き放っている。
世間でもてはやされているような知識はむしろ災いであると考え、それに近づかな
い。
心身を縛るような規則や掟を嫌い、世間の道徳はただの交際の道具であると考え、
技巧や智恵を凝らすことはただ商売でしかないと考える。
聖人は思慮をめぐらさず、よって知識を必要としない。
あるがままの自分であるから、規則や掟を必要としない。
本来の真の道を歩んでいるから、世間の道徳を必要としない。
物の売買をするわけではないから、商売を必要としない。
思慮をめぐらさず、自分を飾らず、真の道を外さず、物の売買もしない。
この四つのことは、真理の道を生きるための自然の素養である。
自然の素養とは、あるがままの万物そのものから得られるものだ。
それなのにどうして、人為的に何かを求める必要があるのだろうか。
聖人は人間の肉体を持っていても、心の情欲にはとらわれないのだ。
人として生を受けたから、人々と一緒に生活はしていくが、
情欲を持つことがないから、良し悪しの判断で身を煩うことはなく、
何かを得たり失ったりというなかで思い悩むこともない。
聖人は、人間でありながら、
果てしなくて大きい万物と共に、万物そのものとして完成しているのだ。
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