快楽と精神
2011年12月13日
快楽の追求しかない生は、やはり凡庸でしかないでしょう。
快楽ばかり求めるのは未熟な精神であり、
世俗的であれ宗教的であれ、いずれも同じことです。
神を求めようとする快楽、神を体験しようとする快楽。
それは世俗的な快楽、感覚的な快楽と何ら変わりありません。
快楽の追求があるところには厳粛さはなく、
エゴにまみれた自己達成や自己満足、自己執着しかありません。
私たちはなぜ快楽を求めるのでしょうか。
心が虚しく、自分が空っぽであることが嫌だからでしょうか。
私たちは自分の中の空虚さを恐れるからこそ快楽を求めます。
快楽が心の空虚さを満たしてくれるからです。
しかし、どんな快楽も全ては一時的で消滅的なものにすぎず、
やがては消えてなくなるものです。永続する快楽というものはありません。
恐怖によって快楽を求め、そしてその快楽を失われることを恐れる。
快楽の追求があるところには、恐怖と苦しみの牢獄があります。
この精神の構造、快楽と恐怖の構造を見抜くことが重要です。
精神が快楽と恐怖の枠に囚われず、完全に自由であることで、
そこに厳粛さと真摯さが生まれてきます。
卑小な快楽の追求から心を清め、恐怖なく生きるところに、
精神の真の自由と美しさがあり、そこから豊かな人間性と英知が花開きます。
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