瞑想の基盤
2011年10月21日
瞑想は言葉を反復することでも、お経を唱えることでもありません。
また、「さあ、これから瞑想しよう」と意志するならば、
それは決して瞑想ではありません。
座禅や神に向かって祈ることもまた瞑想ではありません。
祈りや読経は、それを行うことで心を静められるかもしれませんが、
しかしそれは結局のところ自己催眠的なものでしかありません。
意志のあるところに人間の欲望があり、
その欲望は人間のエゴに基づいています。
祈ったり経文を唱えることは人為的で意図的な行為であり、
そこには無意識のうちに自己達成や自己保身のエゴが潜んでいます。
「これから瞑想を始めよう」とするならば、
それは意図的で自己欺瞞的な行動でしかないでしょう。
真の瞑想は意図的なものではなく、始まりも終わりも持ちません。
始まりと終わりを持つものは、人間が意図的に作り上げたものです。
瞑想とは、「生」の流れと共に刻々と生きることであり、
注意を払ってただひたすら静かに見つめ、聴くことです。
ただ見つめること、聴くこと、そして気づくことは、
欲が介入しない純粋な行為であり、
その純然たる行為こそ瞑想にほかなりません。
しかし、もし「見よう」と意志するなら、そこに欲望があります。
ただ「見る」ことと、「見よう」と意志することは別のことです。
ただ静かに見ること、聴くこと、気づくことが純粋な行為であり、
そこには何かを得たり、経験しようとしたりする欲心はないのです。
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