貧しき人は幸いである
2012年9月5日
“心貧しき人は幸いなり”という言葉が聖書の中にあります。
これはどういう意味を持った言葉なのでしょうか。
心貧しいとは、精神的に乏しいという意味ではありません。
ここで言われる「貧しい」というのは、
心に驕りや傲慢さがないということ、
謙虚で静かな、無私なる心があるということです。
心が高ぶらず、驕らず、エゴにとらわれず、
むしろ無私の精神、無償の精神を持っているということ。
何も求めず、望まず、花のような無の心を持っていること。
そういう精神的な「貧しさ」が本当の美しさであり、
その精神のあり方が「幸いである」と言われるのです。
つまりこの精神性は、完全に「無私無欲」である精神です。
何も欲せず、どんな願望や欲望にもとらわれず、
まっさらに透明な虚心である状態です。
このような精神にあっては、神をも求めることはなく、
ただただ花のようにそこに存在し、生きるだけです。
それこそ「貧しさ」なのであり、
この貧しさは恥ずべきものではなく、むしろ祝福されるもの、
最も神性に近い状態であると言えます。
心貧しき人は、不安も恐怖も葛藤も超えています。
心は何も求めず、何も所有していないので、
何も失うことはなく、また何も切望することもないからです。
そこには心の真の平安、自由、調和があります。
まさにその真の心の自由こそ、人間にとっての祝福です。
心の問題、混乱、苦悩を抱えている人は、
たとえ大金持ちであってもいつまでも不幸であり、苦悩を背負い、
その重荷と業火の中で生きていくことになるでしょう。
生の真の祝福と自由を知っている人、それは心貧しき人なのです。
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