高次の本性、低次の本性

2013年10月17日

高次の本性、つまり精神性や霊性というものとは逆に、
動物的で本能的な性質が人間の中に宿っています。
それは快楽や享楽ばかりに身をゆだねたり、
感覚的で肉体的な欲望のとりこになっている精神です。
これはいわば人間における低次の本性であり、
人間の高次の本性とは正反対のものと言えます。

高次の本性を目覚めさせておくには、
まず私たち自身の心が神聖かつ純粋でなければなりません。
肉体的な欲望ばかりに身をゆだねたり、
ひっきりなしに娯楽や享楽に日々を費やすならば、
そこには霊性や豊かな精神性が開花することはないでしょう。
高次の本性というのは、霊的な次元、聖なる次元です。
肉体的な享楽や世間的な娯楽は高次の次元ではないことはあきらかです。
聖性のうちにはだらしない欲望や怠惰、娯楽や享楽への依存はありません。

快楽や肉体的欲望ばかりに傾こうとする低次の本性が静まり、
より精神的に深く、より純粋で神聖な心が芽生えれば芽生えるほど、
人間の生活は真の霊性というものに溢れることになるでしょう。
精神性、聖性こそ霊的な生活の基盤であり土台です。
これをないがしろすれば、生活そのものが低次のものになってしまいます。
精神がだらけて、習慣的な快楽や享楽ばかりにとらわれるならば、
そこから霊性が開花し、聖なるものが生まれる可能性はありません。

真に目覚めて生きるとは、高次の本性が花開くことです。
高次の本性が花開くためには、自分の生活の中の低次な部分を終わらせ、
生活の質そのものを高めなければなりません。
人間の生活とは、その人の心が表れたものにほかなりません。
その人間の心がより神聖で、より精神的になれば、それだけ霊性は高まるのであり、
そこに人間としての真の徳、善、美─といったものが花開きます。

低次の本性は習慣的で、惰性的な働きです。
それはその人自身の行為、態度、言動、生活のなかにすべて表れます。
そんなあるがままの自分に気づき、それを変えていくこと。
低次から高次へと心を高め、もっと生きることに真剣になること。
そのような心の向上と注意力の形成が、現代の人間には必要なのです。
そうして初めて、霊的な生活の扉が開かれていくことでしょう。


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